【李登輝さん・議員会館講演全文】台湾のパラダイムの変遷

二〇一五年七月二十二日


 文部科学大臣の下村博文(しもむらはくぶん)先生、会場にお集まりのたくさんの国会議員の先生方、秘書の皆様、こんにちは!台湾から参りました李登輝です。

 本日、こちらの国会議員会館においてお話しする機会を得ることができ、大変光栄に感じております。せっかくのこの機会を生かし、本日は、台湾がこれまで 如何にして主体性を確立してきたか、中国式の「託古改制」から台湾の「脱古改新」というパラダイムの転換、そしてこれから台湾が進めるべき「第二次民主改 革」と憲法改正について、皆様にお話ししたいと思います。

 大正十二年、台湾北部の淡水という小さな町に生まれた私は、純粋な日本の教育を受けながら育ちました。少年時代から高校時代の私は、古今東西の先人によ る書物や言葉にふんだんに接する機会を得ることが出来ましたが、これはまさに当時の、教養を重視する日本の教育による賜物と今でも感謝しています。

 私は京都帝国大学で学び、その後も、農業経済を研究する一介の学者に過ぎませんでした。ところが、ふとした偶然から、後に総統となる蒋経国の目に留まり、疲弊していた台湾の農業を復興させるべく、政治の世界へ入ることになったのです。

 そして、思いがけずも、副総統だった一九八八年、蒋経国総統の急死により、結果的には総統を十二年務めるという偶然のチャンスを得ることになりました が、そこで私は台湾のために全力で働こうと決心しました。そして、台湾がいつの日か主体性を確立させ、台湾の人々の尊厳が高まることだけを望んで職務に励 んできたのです。

一九四五年、台湾を統治していた外来政権たる日本は大東亜戦争に敗れ、台湾を放棄するに至りました。台湾は勝者である米英などの連合国によって中国国民党による占領下に置かれることとなりました。「中華民国」という別の外来政権による統治が始まったのです。

当時、台湾社会を取り巻いていた、大日本帝国による「天下は国家の為に」という価値観が、一夜にして「天下は党の為に」を標榜する国民党の中華民国に取って代わられることとなり、台湾における新旧の外来政権の交替がなされたのです。

ただ、五十年に及ぶ日本の統治によって高度に現代化されていた台湾にとって、文明水準の低い新政権による統治は、当然のごとく台湾の政治や社会に大きな混乱をもたらしました。

あっという間に腐敗した国民党政府への不満を爆発させた民衆を、武力によって押さえつけた二二八事件の原因は、台湾と中華民国という二つの異なる「文明の衝突」といえるでしょう。

数百年来、ずっと外来政権の統治下にあった台湾は、一九九六年、史上初めて、国民が選挙で総統を直接選んだことによって、ついにその軛(くびき)から逃れ ることが出来ました。日本時代、学生は教室で台湾語を話すと正座させられる罰を受けました。しかし、日本の統治が終わり、国民党政権の時代になっても、同 じように罰を課されることに変わりはありませんでした。こうしたところに台湾人に生まれた悲哀を深く感じます。

つまり、それまでの外来政権、例えば日本時代には、台湾人は日本人と比べると、その待遇には差別がありました。しかし、中華民国は、台湾が「祖国に復帰し た」とたたえ、台湾人を「同胞」と呼びつつも、やはり奴隷たる存在に貶(おとし)めていたということです。台湾人は努力して自分の道を歩み、自分たちの運 命を切り開くことが叶わなかったのです。こうした状況下で、台湾人の間には「台湾人とは何ぞや」という問題がふつふつと沸き起こって来ていました。

日本統治下の台湾人は学術的に言う「marginal man(マージナル・マン)」、つまり、異なる複数の集団に属しつつも、そのいずれにも完全には所属することができず、それぞれの集団の境界にいる人間で ありました。個人の尊厳というものも存在しなかったように思います。

その後、二二八事件の発生によって、台湾人自身が「台湾人とは何ぞや」という反問を徹底的に繰り返すようになると同時に、外来政権ではなく自分たちの政権 による主体性を確立しなければならないと悟るのです。さもなくば、尊厳ある台湾人としての独立した存在になることは出来ない。こうした過程を経ることに よって「新しい時代の台湾人」としての自覚が覚醒したのです。

そうした意味では、「台湾人」による強固な「アイデンティティ」の確立は外来政権による統治下の産物ともいえるでしょう。まさに、台湾人が自身を「独立した台湾人」とする絶対意識を確立する契機となったのが外来政権による統治なのです。

戦後、台湾を統治した国民党の中華民国もまた外来政権でした。そして中華民国も中華人民共和国も、中国の歴史上、黄帝以後の夏・商・周から明朝、清朝まで脈々と続いてきた帝国体制の延長と変わることはありませんでした。

こうした体系は「法統」と呼ばれ、政権の正当な継承を意味します。この「法統」から外れたものが化外の民であり、夷狄の国々なのです。中国五千年の歴史すなわち「ひとつの中国」の歴史であったとも言えるでしょう。

そしてこれらの帝国にすべからく共通していたのが「古」に託して制度を改めるという「託古改制」の思想だったのです。

現在の中華民国、中華人民共和国ともに中国五千年の歴史の延長にすぎず、ここから見てとれるのは、中国はいまだに進歩と退歩を絶え間なく繰り返している政 権にすぎないということです。ドイツの社会学者、マックス・ヴェーバーが中国をして「アジア式の発展停滞」の典型と唱えることがありますが、これは決して 不合理とは言えません。

孫文が建国した「中華民国」は理想を宿した新しい政体ではあったものの、政局の混乱により、その理想は夢と終わり、基本的には中国式の「法統」の延長線上 にある政体に成り果ててしまいました。中華人民共和国は、その源をソビエト共産党に発するものの、「中国」という土地に建国された以上、中国文化の影響か ら逃れられずにはいられませんでした。

共産革命が中国にもたらしたのは、中国をアジア式の発展停滞から脱出させることではなく、中国伝統の覇権主義の復活と、誇大妄想を有する皇帝制度が再び生まれただけのことです。

中国五千年の歴史は、一定の空間と時間のなかで、一つの王朝から次の王朝へと連結する歴史であり、新しい王朝といえども前の王朝の延長にすぎません。歴代 の皇帝は権力の座の維持、国土の拡大、富の搾取に汲々とする以外、政治改革への努力を払うことは稀でありました。これこそがいわゆるアジア的価値観、アジ アン・バリューなどと呼ばれるものです。

中国の歴史上、政治改革といえるものはいくつかありましたが、惜しむらくはどれも成功しませんでした。歴代皇帝の統治過程を見てみると、どの王朝も疑いな く「託古改制」のゲームに終始していると言わざるをえません。「託古改制」とは言うものの実際は「託古『不』改制」と言うほうがより事実に即しているで しょう。

こうした五千年の閉鎖された皇帝政体に対し、魯迅は次のような見方をします。
「これは、閉ざされた空間で亡霊が入れ替わり演じる寸劇であり、この国がよたよたと歩みを進める、つまらぬ輪廻の芝居である」。

また、魯迅は中国人の民族性を的確に表しています。
「中国人とは『騒ぎは率先して起こさず』、『禍の元凶にならず』のみならず、『率先して幸福にならず』の民族である。これではあらゆる物事の改革を進めることが出来ず、誰も先駆者や開拓者の役割を担おうとしない」。
私は、この魯迅の観察はかなり正鵠を得ていると感じるのです。

ここまで私が述べてきた、中国の「法統」による「託古改制」は、もはや近代の民主化の潮流に見合わないことは明らかでしょう。そこで私は、新しい改革の方向性として「脱古改新」という新しい概念を提唱したいと思います。

「脱古改新」とは、「古」を脱し、新しく改めるということで、その目的は、「託古改制」の害毒であるアジア的価値を捨て去ることにあり、「ひとつの中国」、「中国式法統」による束縛から逃れ、台湾を主体性ある民主国家にすることにあります。

一九八八年、私が総統に就任した際に描いた、台湾の国家戦略の背景を申し上げましょう。

この当時の台湾における、国民党政権による独裁統治は、まさにアジア的価値観の見本とも言えるような状況でありました。政権内部には、保守と革新の対立、 閉鎖と開放の対立、国家的には民主改革と独裁体制の衝突、台湾と中華人民共和国の間における政治実体の矛盾など、深刻な問題が山積していました。特に、民 主化を求める国民の声は日増しに大きくなっていたのです。

全体的に見ると、これらの問題が抱える範囲は非常に広範でしたが、その根本的な問題は、台湾の現状に即していない「中華民国憲法」にあったと言えます。そのため、私はこれらの問題解決のためには憲法改正から始めるしかないと考えたのでした。

当時、私は国民党主席を兼務しており、国民党が絶対多数の議席を有していました。言い換えれば、当時の国民党は絶対的に優勢な政治改革マシンであったわけです。

ただ、問題は党内部の保守勢力でした。保守勢力は時代遅れの憲法への執着を隠さず、その地位を放棄することにも大反対でした。民主改革を求める民衆の声には耳を貸さず、ただ政権維持だけに固執したのです。

さらに、国民党を牛耳る有力者たちは「反攻大陸」、つまり、いつの日か中国大陸を取り返すという、時代遅れの野望を捨てきれずにはいられませんでした。

そこで私は一計を案じ、「国家統一綱領」を制定して「中国の自由化・民主化・所得配分の公平化が実現された際には、統一の話し合いを始める」という厳格な規定を設けました。

私は、中国が自由化、民主化されるような日は、半永久的に来ないと思っていましたし、仮にそうなった場合には、その時にお互い再び話し合えば良いと考えた のでした。ただ、この国家統一綱領を作ったおかげで、それまで私に猜疑心を抱いていた国民党の有力者たちは安心して総統の私を支持してくれるようになった のです。

こうした一連の民主化の過程において、私は幾多の困難にぶつかったとはいえ、終始国民からの支持を受けながら、経済成長の維持、社会の安定を背景に、ついに一滴も血を流すことなく、六度にわたる憲法改正によって「静かなる革命」を成就させました。

常に「人々が夜、安心して眠れる社会にしたい」とばかり考え、夢中で務めた十二年間の総統でしたが、まがりなりにも台湾に民主社会を打ち立てることができたのは、私の生涯の誇りとするところです。

さて、中華民国憲法の改正には、国会議員にあたる立法委員のすべてを台湾の有権者による選挙で選出すること、有権者の直接投票による総統選挙なども含まれ、これらを相前後して実現させていきました。

そして、「民主主義」という大きなドアを開けたのみならず、「中華民国」を「中華民国は台湾にあり」という新しいステージへと押し上げたのです。長らく追 い求めてきた台湾の主体性を有した政権はこの頃に完成されたと言えるでしょう。言い換えれば、台湾はもはや「ひとつの中国」の軛(くびき)を脱したと同時 に、「中国式法統」の道を突き進むことをやめて「アジア的価値」の神話を打ち破ったのです。

また、中国は「ひとつの中国」、「台湾は中国の一部分」という主張を繰り返していますが、我々は決して同意することは出来ません。

私は一九九一年、歴史問題を解決し、対立の火種を取り除き、平和で安定的な両岸関係を築くべく、両岸は交戦中であると規定した「動員戡亂時期臨時条款」の 撤廃を宣言し、国共内戦を終わらせました。中国と台湾が相互に相手の政治実体を認め、さらに台湾が有効的に台湾を統治し、同様に中国もまた中国大陸を統治 していることを承認するようにしたのです。

その後、一九九八年には台湾省を凍結しましたが、これは事実上の台湾省廃止でした。台湾省とは、広大な中国大陸を統治するのは中華民国であり、台湾はその 一つの「省」にすぎないという虚構と矛盾の上に置かれていたのです。このような状態を放置していたら、いつまでも台湾と中国は一体であると国際社会に誤解 を与え続けるようなものです。そこで、台湾と中国は別個の存在である、というアピールを込めての台湾省凍結でした。

そして一九九九年、私は台湾と中国の関係について、より一歩踏み込んだ表現をすることになります。ドイツのラジオ局によるインタビューを受けることになっ た際、ラジオ局から事前に送られてきていた質問に対し、新聞局が提出してきた想定問答には「台湾は中華民国の一省である」というような、到底納得できない 記述になっており、私は自ら鉛筆を取って、より明確に「台湾と中国は『特殊な国と国との関係』である」と言い切るよう原稿を書き直し、台湾と中国の境界を より鮮明にしたのです。

半世紀以上もの間続いた、中国と台湾の曖昧な関係をきちんと整理することで台湾に長期の安定がもたらされるようにと考えたためです。蛇足ですが、この『特殊な国と国との関係』という表現は、ある日本人外交官の発言にヒントを得て考え出したものです。

台湾の民主改革の成功、対中国関係の整理は「託古改制」から「脱古改新」への転換によって実現されました。そして、アジア的価値を否定するという目標を達 成し、「新しい時代の台湾人」という新概念を確立させたことは、あらゆる価値観における価値の転換の実現でもありました。

 これは、自然科学の概念を応用すれば、台湾のパラダイム、つまり枠組みが転換したと言えましょう。パラダイムという言葉を日本語で表現するにはなかなか難しいのですが、「ある時代に支配的な、物の考え方や認識の枠組み」と訳せるかもしれません。

 例えば、アインシュタインが相対性理論を唱えるまで、科学者たちはニュートン力学という枠組みのなかで、その理論を発展させる研究を行ってきました。し かし、時代が進み、ニュートン力学というパラダイムでは解決できない例外的な問題が登場し、古いパラダイムによる支配が揺らぎ始めます。すると、新しいパ ラダイムであるアインシュタインの相対性理論が、古いパラダイムにとって代わり、根本的な変革に至るのです。

 こうしたパラダイムの概念を台湾社会にあてはめてみると、一九八〇年代後半から九〇年代にかけての台湾では、長期にわたる経済的繁栄、社会分配の公平性 が進められた結果によって「少数による統治下における民族の対立」という古いパラダイムが打破され、「多元的な民族が共存する社会」という新しいパラダイ ムに取って変わられました。

 それと同時に、政治の民主化、権力の本土化という変革によって、空虚な「大中国」という伝統的アイデンティティに疑問が投げかけられた結果、主体性を有した「台湾アイデンティティ」という新しいパラダイムが生まれてきたのです。

 これまでお話ししてきた、台湾の「脱古改新」という歴史における大事業の成功は、台湾のパラダイムの転換作業でした。それによって台湾の社会は新しい局 面を迎え、民主社会という時代に突入することとなりましたが、近年、この当時の第一次民主改革の成果が極限に達していることを伺わせるような場面が多々生 じてきました。

 一九八八年の戒厳令解除後、言論が自由となり、国民党による独裁体制は崩れ、二〇〇〇年には平和的な政権交代も成されました。これによって台湾は、民主 主義への移行が最も成功した例となり、経済面でも自由化、多元化が進みました。これらすべてが第一次民主改革の成果といえるでしょう。

しかし、ここ数年来、民主主義の発展は疲弊を呈し、退化の兆しさえみせています。政党間には理性を失った無意味な対立が起こり、指導者は地に足が着いてい ない無責任な政治家になってしまいました。司法は公正さを失い国民の信頼をなくしています。第一次民主改革の成果はもはや限界に達しており、超えることの できない障害にぶつかっていると言えるでしょう。

民主化以後、二度にわたる政権交代の経験は現在の民主体制そのものに大きな欠陥があることを露呈しました。代議制度がうまく機能しておらず、国民の声が全く反映されていないのです。政府は国家や国民の利益ではなく、党の利益ばかりを追い求めている有り様です。

また、中央政府と地方自治体の連携がなされておらず、このような民主体制は、新たな改革に乗り出さない限り国家の重大な問題を解決することができないばかりか、さらに大きな問題を誘発することにもなりかねません。

そのため、台湾には憲法改正を含む、第二次の民主改革が必要とされているのです。改革を求める声は社会、特に若者たちの間からも大きく上がっています。

現在の中華民国憲法では、総統は直接選挙で選ばれることになっていますが、憲法上では、権力の範囲に関するはっきりとした規定が存在しません。すべては総 統個人の民主的な素養、自我の抑制を求めるしかない状態です。憲政主義の大原則である「権力分立」や「権力の抑制と均衡」に照らせば、民選総統の権力には 制限を設けるべきです。

現在の台湾の総統の権力が大きくなりすぎているという問題点をはっきりと浮き彫りにしたのが、昨年三月に起きた「ヒマワリ学生運動」でした。

それまでも、馬英九総統の主導で中国との様々な経済協定が結ばれていましたが、密室協議で強引に中国との「サービス貿易協定」を結ぼうとした政府に対し、学生たちの怒りが爆発し、立法院の議場占拠という前代未聞の事態になったのです。

彼らが呼びかけた抗議デモには、五十万人の人々が集まりましたが、改革を求める民の声がそれほど大きくなっていることの裏返しです。

ただ、その一方で、「緊急事態条項」の創設も推し進めなくてはなりません。日本でも、東日本大震災から四年以上が経ち、迅速な救援活動や物資配給を可能に するため、政府に一時的に権限を集中させる「緊急事態条項」が憲法上に規定されていないという欠陥が指摘されていますが、中華民国憲法にも同様の問題点が あるのです。大規模な自然災害などの発生時に、憲法保障の空白が生じる事態を避けるためにも、この点を早急に改善する必要があるのです。

これまでお話ししてきた通り、私が総統在任中に推し進めた第一次の民主改革は、独裁体制を崩壊させ、民主社会を打ち立てたという点では成功をおさめたと言えるでしょう。

私はこれらの成果によって台湾を、アジアを代表する民主国家に生まれ変わらせたことを一生の誇りと自負しておりますが、しかしながら、私はこうした自負に決していつまでも酔っているわけにはいきません。
 今や、第一次民主改革の成果は、極限に達しており、台湾はまさに「第二次民主改革」が必要とされているのです。

私は現在、九十二歳、長く見積もっても、台湾のために働けるのはあと五年くらいだろうとも感じています。残りの人生は、台湾に、より一層成熟した民主社会を打ち立てるために、捧げたいと思っております。

台湾はこれからも、日本と同じく、自由と民主という価値観を至上の価値としつつ、日本と手を携えて国際社会の発展のために貢献していきたいと考えております。日本の国会議員の先生方には、どうか台湾への関心を引き続き寄せていただきたいと願っております。

以上をもって、本日の私の講演を終わりたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。

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台灣的典範轉移
二〇一五年七月二十二日

文部科學大臣下村博文先生、岸信夫眾議院議員等先進,以及齊聚會場的諸位國會議員、秘書,大家好!我是來自台灣的李登輝。

今天,有機會在國會議員會館發表談話,感到非常榮幸。我想利用這個難得的機會,跟各位談談台灣如何建立主體性的過程,從中國式的「託古改制」到台灣式的「脱古改新」這種典範轉移,以及台灣今後應該推動的「第二次民主改革」和憲改。

一九二三年,我出生在台灣北部的淡水小鎮,接受過完整的日本教育長大成人。從少年時代到高中時代,有機會廣泛接觸各國古今先哲的典籍和言論,這是當時日本教育重視教養的良好遺產,我到現在還是感謝這種教育。

我在京都大學求學,後來只是一介研究農業經濟的學者。但是,緣於意料之外的偶然,蒙受後來擔任總統的蔣經國注意,他希望重振衰敗的台灣農業,我就因此踏入了政治圈。

料想不到的是,一九八八年擔任副總統的時候,由於蔣經國猝逝,結果讓我當了十二年的總統。這個偶然的機遇,我決定全力為台灣打拼,工作上自我勉勵,期待早日確立台灣的主體性,並提升台灣人的尊嚴。

一九四五年,統治台灣的外來政權日本,在第二次大戰中戰敗,被迫放棄台灣,台灣因此被戰勝國盟軍指派蔣介石接收佔領,開啟另一個外來政權「中華民國」的統治。

當時台灣所處的環境是,從強調「天下為公」的「大日本帝國」,突然轉變為標榜「天下為黨」的國民黨「中華民國」,新舊外來政權就在台灣進行交替。

日本統治不過五十年,台灣就進入現代化社會,突然由一個文明還不如台灣的新政權統治,當然會造成政治和社會的嚴重混亂。

突然間,人民對腐敗的國民黨爆發不滿,遭受武力鎮壓的二二八事件,原因就是台灣與中華民國兩種不同「文明的衝突」。

台灣數百年來都是被外來政權所統治。一九九六年,台灣第一次由人民直選總統,正式脫離外來政權的統治。日本人統治的時候,學生在教室講台灣話就會被罰跪,日本人走了,國民黨政權來了,台灣人還是受罰。我深深體會到「生為台灣人的悲哀」。

總言之,過去的外來政權如日本時代,台灣人和日本人相比就有差別待遇,但是頌揚台灣「回歸祖國」的中華民國,雖然把台灣人稱為「同胞」,但台灣人還是存在 奴隸般的狀況,台灣人無法努力邁向自己的前程,也不能開創自己的命運。所以,台灣人之間便湧現「台灣人是什麼?」這樣的疑問。

日本統治時代的台灣人,學術上稱為「邊緣人」(marginal man),也就是說,雖然屬於不同的複數集團,卻無法完全歸屬於任一集團,而是處於各集團邊界的人,沒有個人尊嚴。

然後,二二八事件爆發,台灣人開始徹底反省自己是什麼?同時,台灣人應該建立自主政權而非外來政權的主體性。若非如此,台灣人就不能作為有尊嚴、獨立性的人。透過這個過程,就是自覺為「新時代台灣人」的醒悟。

在此意義上,「台灣人」之所以能夠建立穩固的「身分認同」,可說是外來政權統治下的產物,因為外來政權的統治,正是確認自己是「獨立台灣人」這種絕對意識的契機。

戰後統治台灣的國民黨中華民國,也是外來政權,而且,中華民國和中華人民共和國,都是中國歷史從黃帝以降的夏、商、周到明、清一脈相承的帝國體制。

這個體系被稱為「法統」,是正當繼承政權之意。這個法統之外,就是化外之民、夷狄之邦。五千年歷史的中國就是「一個中國」的歷史。

而且,這些帝國都一樣必須修正託「古」制度這種「託古改制」的思想。

現在的中華民國、中華人民共和國,都是中國五千年歷史的延伸,在我們看來,中國只是進步與退步的不斷重複的政體。所以,德國社會學家馬克思‧韋伯以中國為模型提出「亞洲式發展停滯」的理論,並非沒有道理。

孫文建立的「中華民國」,是一個具有理想性的新政體,可惜因政局混亂,理想無法實現,基本上還是延續中國法統的政體。中華人民共和國,雖然源頭來自蘇聯共產黨,但是既然在「中國」這一塊土地上建國,還是無法脫離中國文化的影響。

共產革命帶給中國的,不是讓中國擺脫亞洲式的發展停滯,也不是擺脫中國,而是一種中國傳統霸權主義的復活,以及癡心妄想皇帝制度的重現。

中國的五千年歷史,都是在一定空間和時間之中,一個朝代與一個朝代的連結體,就算是新朝代,也只是上一代歷史的延長而已。歷代皇帝大多忙於鞏固權位、開疆拓土和掠奪財富,很少為政治改革而努力,這就是所謂的亞洲價值(Asian Value)。

中國歷史上雖然也有幾次政治改革,可惜都失敗了。就整個帝王統治過程來看,每個朝代無疑都在玩「託古改制」的把戲。所謂的「託古改制」,其實應該說「託古『不』改制」比較貼近事實。

面對這種五千年的封閉帝王政體,魯迅曾有如下看法:「這是被囚禁在幽靈圍牆中,循環演出的戲劇;亦是在古國之中,螺旋前進的無聊表演」。

對於中國人的民族性,魯迅說得更精準,他說:「中國人不只『爭亂不為首謀』、『禍患不為元兇』,而且還是『幸福不為先達』。所以,所有事情都沒有辦法進行改革,沒有人願意扮演先驅者與開創者角色」,我認為魯迅的觀察相當精闢。

如前所述,中國法統的「託古改制」,顯然已經不被近代民主化潮流所接受。本人於是提出「脫古改新」的新思維,作為改革的方向。

「脫古改新」目的在切斷「託古改制」餘毒的亞洲價值,擺脫「一個中國」、「中國法統」約束,開拓台灣成為具有主體性的民主國家。

現在就來談談一九八八年本人繼任總統時,台灣國家戰略的背景。

國民黨政權遂行威權統治,當時台灣正是亞洲價值觀的樣本。政權內部包含了保守與革新對立、封閉與開放對立、民主改革與獨裁體制衝突,以及台灣與中國(中華人民共和國)政治實體的矛盾等堆積如山的陳疴。特別是人民要求民主的呼聲正與日俱增。

綜觀這些問題,涵蓋範圍非常廣泛,主要問題在於使用一部不適合台灣現況的《中華民國憲法》。要解決這些問題,只有從修憲做起。

當時本人兼任國民黨主席,國民黨在國民大會佔有絕對多數的席次,換言之,當時的國民黨是一部擁有絕對優勢的政治改革機器。

但是,問題出在國民黨內部的保守勢力。保守勢力緊抱着落伍憲法不放,不肯放棄「法統」地位,不肯順應民主改革的聲音,只想維持政權。

而且,國民黨當權派死抱著「反攻大陸」的迂腐野心,妄想有一天拿回中國大陸。

於是我心生一計,制定《國家統一綱領》,設計出「中國實現自由化、民主化、所得分配公平化時,始協商統一」的嚴格規定。

我認為,中國落實自由化、民主化的日子遠在未定之天,如果真的走到這個階段,到時再來談這個議題會比較好。因為制定《國家統一綱領》,過去對我心懷疑忌的國民黨當權派才放心支持我擔任總統。

在一連串民主化過程中,我雖然經歷無數困難,但是終能在全體國人的支持下,以及維持經濟成長、社會安定的過程中,完成不流血的「寧靜革命」。

我常想「建立讓人民安枕無憂的社會」,擔任總統的十二年間,戮力以赴,終於打造出差強人意的民主社會,這是個人畢生的榮耀。

修改中華民國憲法,立法委員(國會議員)全部由台灣人民選出,還有人民直選總統,都陸續獲得實現。

接下來,台灣不但打開民主大門,同時將「中華民國」推向「中華民國在台灣」的新位置。這時候,長期追求具有台灣主體性的政權業已成型。換言之,台灣已經朝向擺脫「一個中國」,以及終止「中國法統」的道路邁進,打破「亞洲價值」的神話。

而且,我們決不同意中國反覆強調「一個中國」、「台灣是中國一部份」這種主張。

為了解決此一歷史問題,消除對立因素,開創和平安定的兩岸關係,本人在一九九一年宣布終止《動員戡亂時期》,廢除臨時條款,停止國共內戰。互相承認對方為政治實體,台灣有效統轄台、澎、金、馬地區,中國有效統治大陸地區。

後來在一九九八年凍結台灣省,其實就是廢省。所謂的台灣省,是把台灣放在虛構與矛盾的位置,意指中華民國統治的廣袤大陸裡,台灣只是其中一個「省」。一旦處於這種狀態,勢將永遠讓國際社會誤解台灣與中國是同一國,本人主張台灣與中國各自存在,所以把台灣省凍結掉。

到了一九九九年,我接受德國之音訪問,進一步闡釋台灣與中國的關係。對於該媒體事先送來的提問,新聞局草擬的答覆是「台灣是中華民國的一省」,對於這種不易理解的表達方式,我拿出鉛筆修正原稿,明確宣示台灣與中國是「特殊的國與國關係」,清楚劃分台灣與中國的界線。

我認為,為了台灣的長治久安,應該徹底釐清台灣與中國延續半世紀以上的曖昧關係。說個題外話,這個「特殊國與國關係」,是我從某位日本外交官的談話中獲得靈感思考出來的表達方式。

台灣民主改革的完成,與中國關係的釐清,就是從「託古改制」轉移到「脫古改新」的過程,達成否定亞洲價值的目標,建立「新時代台灣人」的新概念;也就是,全面在價值觀上落實價值的轉換。

如果運用自然科學的概念,這種過程就是台灣的典範(架構)轉移。典範這個詞彙在日文中很難表現出來,或許可譯為「某個時代主導事務的思維方式和認知結構」。

例如,直到愛因斯坦提出相對論之前,科學家都是在牛頓力學的架構裏從事研究,宏揚該理論。但是時代進步了,出現牛頓力學這種典範無法解決的例外情況,舊典範主導的現象開始動搖,新典範的愛因斯坦相對論於是取代舊典範,導致根本性的變化。

把典範概念置入台灣社會來看,一九八○年代後期到九○年代,台灣透過長期經濟繁榮、社會分配公平性的發展,打破了「少數統治下的族群對立」的舊典範,取而代之的是,「多元族群共存社會」的新典範。

在政治民主化、權力本土化的變革同時,「大中國」這種虛幻的傳統意識形態遭受質疑,其結果,擁有主體性的「台灣認同」這種新典範就應運而生。

剛剛跟各位談到的是,台灣「脫古改新」這種歷史大業的成功,這是台灣的典範轉移工作。透過這個過程,台灣社會迎向新局面,進入民主社會的時代。但是,當時完成第一次民主改革的成果,近年來已發生很多瀕臨極限的情況。

一九八八年解嚴後,言論變自由了,國民黨的獨裁體制瓦解,二○○○年完成政權和平轉移。透過這種方式,台灣成為邁向民主最成功的範例,經濟上也走向自由化與多元化。這些都是第一次民主改革的成就。

但是,這幾年的民主發展呈現疲態,顯露退縮的徵兆。政黨間產生喪失理性的無謂對立,領導人變成不踏實、沒有責任感的政治人物;司法失去公正性和人民信賴。第一次民主改革的成果已達極限,遭遇無法跨越的障礙了。

民主化以後,二度政黨輪替的經驗,現在已暴露出民主體制的重大缺失。代議制度無法順暢運作,不能完全反映人民的心聲。政府不只追求國家和人民的利益,更有唯黨利是圖的現象。

而且,中央與地方政府沒有攜手合作,只要不著手新的改革,這種民主體制不但無法解決國家的重大問題,還可能引發更嚴重的問題。
社會上,特別是年輕人要求改革的聲音已經響徹雲霄。所以,台灣有必要推動憲改在內的第二次民主改革。

現行中華民國憲法雖然規定總統由人民直選,但憲法對總統的權力範圍卻沒有明確規範,完全端視總統個人民主素養和自制力的狀態。依照立憲主義「權力分立」和「權力制衡」的基本原理,理應對民選總統的權力設限。

去年三月發起的「太陽花學運」,讓台灣總統權力過度膨脹的問題清楚浮現出來。

當時,在馬英九總統的主導下,台灣與中國簽訂許多經貿協定,政府想用密室協商強渡關山,與中國簽訂「服貿協議」,從而引燃學生怒火,爆發佔領立法院議場這種前所未聞的事件。

學生發起的示威遊行聚集了五十萬人,人民要求改革的聲音跟著大了起來。

另方面,應該推動「緊急權條款」的設計。日本也是一樣,東日本大震災發生已歷四年,為了加強救援速度和物資配送,有人指出未明定政府暫時性集權的「緊急權 條款」是日本憲法的缺點,中華民國憲法也有相同問題。發生大規模自然災害的時候,為了避免憲法保障的空白現象,實有必要儘早加以改善。

如同剛剛跟各位所談,我在總統任內推動第一次民主改革,瓦解獨裁體制,樹立民主社會,這點可說已獲得成功。

這些成果,讓台灣成為亞洲民主國家成功轉型的代表,這是我一生的榮耀與驕傲,但是我不會沉醉在這種驕傲裏。現在,第一次民主改革的成果已經遭遇瓶頸,台灣真的有必要進行「第二次民主改革」了。

我現年九十二歲,就算高估一點,我能為台灣做事的時間大概只剩五年。為了打造更成熟的民主社會,我想把餘生獻給台灣。

今後,台灣和日本一樣,都會把自由民主的價值觀視為最高價值,台日攜手為國際社會的發展做出貢獻。懇請日本國會議員諸位先生,繼續對台灣表達關心。

謹以上述談話,結束今天的演講,感謝各位聆聽。

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